清盛は二条天皇の乳父

室の時子は乳母となり天皇の後見役をつとめて検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。

応保元年・1161年9月後白河上皇と平滋子の間に第七皇子が生まれると、平時忠・教盛が立太子を画策した。

二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。

清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。

翌年3月には平治の乱で配流されていた二条天皇親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。

清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。

さらに関白・藤原基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。

院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年・1164年蓮華王院を後白河上皇のために造営している。

蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。
update:2010年03月07日